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小泉純一郎元首相の 元妻宮本 佳代子さんが、
雑誌 「いきいき 4月号」に ご自身の半生、 子供たちへの
思いを 記事にされていました。
その記事は、 読んでいませんが、
他週刊誌や テレビのニュースで 取り上げられていた
のを読んだり 聞いたりしたら、 私が聞き知っていることと
だいぶ、違うのでびっくりしております。
そもそも 最も需要な離婚の理由が 書かれていないで、
生き別れとか、 子供たちを思い出して 一生分の涙を流したとか、
佳代子さんのその話しは、 私は とても違和感を感じざるをえませんでした。
聡明で 美しい佳代子さんは、 三代続く政治家の 家系の
小泉 純一郎氏に 見初められて、大学在学中に嫁ぎ、
その年(’78年)に 長男 孝太郎氏を、
’81年に 次男 進次郎氏を出産し、 '82年9月に 離婚する時には、
佳代子さんのお腹には 6か月の赤ちゃんがいました。
当時の 小泉家は、 祖父 小泉 又次郎氏は、
元横須賀市長、元逓信大臣、元衆議員副議長をされていて、
その後を継ぎ、政界入りした 父 小泉 純也氏は 元衆議院議員、
元防衛庁長官という 代々続く 政治家の家系。
その後を継ぐ、 小泉純一郎氏を 首相にするべく、
母と2人の姉が、 役割分担をして、 必死に支えていました。
居場所がわからない、 居場所がないと、 耐えきれず出て行った佳代子さん。
未来の首相を目指す、 小泉家へ 嫁がれたのならば、
そうしたふさわしい 相応の 覚悟や忍耐、辛抱が 必要なのは、
嫁としても 人としても 当然なことだと 誰もが解ることではないでしょうか。
佳代子さんは、 それを たった4年しか 我慢できなかったのです。
我慢できなかった だけでなく、 3歳と1歳の乳飲み子を 置いて
小泉家を出て行ってしまった 母親としての罪も
とても重いのではないでしょうか。
私が 聴き知っていることを お話ししましょう。
家出した彼女を、 純一郎氏は 迎えに行き、
誇りも捨て、 畳に 手をついて あやまり、
戻って来てくれと 嘆願したというのですが、
佳代子さんは がんとして聞き入れず、
戻ることを拒否したのだそうです。
わが子たちへの 愛よりも、 夫を支えることよりも、
家庭円満よりも、我がエゴを取った 彼女に対して
強い憤りを感じたのも 理解できます。
純一郎氏は、 永久の 絶縁を佳代子さんに 言い渡し、
生まれてくる子どもも 決して 認めないという 宣告ををされたそうです。
時が経ち 純一郎氏が ’01年4月に総理大臣に就任され、
そのわずか半年余りの同年11月に、 純一郎氏のお母様が
ご逝去なさいました。 この告別式に 佳代子さんは、
我が子 佳長さんを連れ、参列を試みましたが、
拒否されたことは、 周知の事実ですが、
理由を一番知っているのは、 絶縁宣言をされていた
佳代子さん自身ではないでしょうか。
離婚して19年、何年経っても、永久に絶縁されている人間が
のこのこと 未練がましく出席しようなどとは、
首相夫人の座を 惜しく思ってしまったからと 思う人も
少なからずいたことでしょう。しかも、 進次郎氏が 次の
未来を担う 超人気で、母として名乗り出たい気持ちも
あったと 思われているのでは ないでしょうか。
雑誌記事の中では、 ’13年11月の佳長さんの
結婚式には、 純一郎氏、 孝太郎氏、 進次郎氏、と3人で出席、
家族5人が揃ったということが 書かれていましたが、本当でしょうか?
兄弟3人が ちょくちょく会っているということも 本当でしょうか?
百歩譲って 進次郎氏の 初めての佳長氏と会うことを
許したとしても 政界で生きる小泉家を捨て、 2人の乳飲み子を捨て、
絶縁後、 好きなように生きた彼女を 純一郎氏が 許したのでしょうか。
「永久絶縁」。 有言実行者の彼が、 彼らしくないけれど、
それがもし 本当だったら 佳代子さんにとっては
さぞかし 嬉しいことでしょう。
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では 皆さま 次号をお楽しみに。
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『びっくりです! 小泉純一郎元首相の 元妻の記事』 【Vol.782】
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